忠輝公は徳川家康の六男として生まれますが、生まれてから幼少期にかけて、父家康から「鬼っ子」として嫌われたと言います。
理由は、当時不吉とされた双子であったとか、母親が家康の正室付女中の出であった為とか、または切腹した長男信康の面影があったからなどと諸説あります。
いずれにしても生まれてすぐに養子に出されるわけですが、幼少期から楽器の名手であり運動神経も抜群であったと言います。家康の兵法指南役であった奥山休賀斎の元で武術や兵法を会得し、剣の達人にして軍略も軍師の如くだったようです。
忠輝公は父・家康より勘当され、生涯その勘当は説いてもらえませんでした。これまでは、大阪夏の陣に遅参したとか、家臣が将軍秀忠の家来を斬った事などが原因にあげられてきました。
しかし一説では、前述を理由に忠輝を失脚させようと計る将軍秀忠をけん制し、家康が取り計らったとも言われています。
家康は他に、「野風の笛」を忠輝に送ったり、200万両という大金を与えたりと忠輝の地位や力を維持するかのような行動を見せています。有能な忠輝を江戸幕府の目付け役とし、そのバランスを取ることで幕府の存続を図るという家康の策であったのかもしれません。
当時幕府に煙たがられたキリスト教宣教ですが、忠輝は積極的に通じ、西洋医学や外国語を学びました。ラテン語・イタリア語・スペイン語・ポルトガル語・英語をマスターしていたと言います。異国の優れた文化を取り入れ、自国の発展に役立てるべきという考え方であったようです。
また、妻の五郎八姫がキリシタンであったと言いますので、忠輝もまたキリシタンであったのかもしれません。
義父である伊達政宗にその才を見込まれ、イスパニア国への親善使節にと推挙されますが、藩主が居なくては高田藩が存続しないと案じ申し出を断ったと言います。ちなみに代わりにイスパニアへ行ったのが支倉常長です。
権力者を嫌ったという倶儡子(くぐつ)と呼ばれた流浪の旅芸人達に慕われ、自らの意思に於いて、生涯忠輝の身辺警護や情報収集などをしました。
忠輝もまちへ出て、倶儡子と共に路上で鍋などを囲み談笑するのを楽しんだと言います。気さくで庶民を大切にする人柄が、藩民にも慕われたようです。
家康は自らの死期を悟ると、将軍秀忠の前で、忠輝の母・茶阿の局に「野風の笛」を忠輝に渡すように託したと言います。野風の笛は、織田信長が愛し、秀吉、家康と渡った「天下人の笛」と呼ばれた縦笛です。(長野県諏訪市に現存)
「野原でひとたびその笛を吹けば、大地から10万の鎧武者が現れる」と言い、それはいみじくも、忠輝に密かに味方した10万ものキリシタン武士の存在を意味していたとされ、将軍秀忠を大いに震え上がらせたと言います。秀忠に対し、忠輝を邪見するべからずという家康のメッセージであったと思われますし、逆に忠輝には、「この笛を吹くことがないように」と伝えました。
忠輝の勘当は生涯解きませんでしたが、忠輝には、「長生きし、江戸幕府の目の上のたんこぶであり続けろ」と諭したとされます。現に幕府は人望・才能に溢れる忠輝の存在を恐れ、けん制しつづけたようですし、忠輝が諏訪の地で亡くなった折も江戸から検分の役人が使わされたとされます。忠輝は92歳という長命で、5代将軍綱吉の時代まで生きています。
忠輝公の人生はとてもドラマチックです。
生まれてすぐに父に遠ざけられて養父に育てられ、奥山休賀斎に武術を学んだりして育ちます。やがて兄弟に代わり長野県の川中島藩を任され、その後に現上越市の直江津に位置した越後福島城に移ります。その時に、東の上杉、西の前田を抑える拠点として、高田城の築城が家康の命により成されたとされます。その工事には13もの外様大名からの普請があり、陣頭指揮は忠輝の娘親である伊達政宗が当たりました。家康の全国支配においての政略を感じずにはいられませんが、いずれにしても忠輝は、加賀の前田藩100万石に次ぐ75万石の大大名となりました。それでも、宣教師から異国の優れた文化を学ぶと共に、まちへ出て庶民に愛された殿様だったと言われます。義父である伊達政宗は忠輝公の才を見込み、イズパニアへの船に乗せる算段をしますが、忠輝公自身が「藩主不在につき高田藩に不利益があっては困る」とし断ったそうです。
大坂夏の陣へは高田藩を率いて参戦しておりますが、根っからの戦嫌いと、物の本によれば敵将豊臣秀頼と親交があった事などから、戦場に遅参し無気力な参戦の仕方であったようです。また移動の際に高田藩の家臣が将軍秀忠の家来を斬るという事件がおきます。忠輝は高田藩の家臣を信じ、守ったとされます。この戦への遅参や家臣の起こした事件をかさに、兄である秀忠は忠輝の失脚を目論みますが、父・家康が「勘当」という親子間での処罰をすることで秀忠に手出しをさせませんでした。家康は秀忠から忠輝への妬みを知り、敢えて忠輝の勘当を生涯解かなかったと言われています。
しかしやがて家康が死ぬと、秀忠は再び事件を持ち出して、ついに忠輝を改易にしました。忠輝はその後、各地を流罪の身で転々とし、最後は長野県諏訪の高島城にて亡くなります。高田藩を25歳で改易になったのち、92歳の長寿を全うする実に67年もの間居候の身であったことになります。
振り返るに忠輝公が最も輝いていた時代が高田藩主であった2年間であり、妻の五郎八姫と暮らし、義父の伊達政宗と異国文化への夢を募らせた時期でもありました。江戸表からはその存在を危険視され続けた忠輝公でしたが、忠輝公には政治欲や自己顕示の心はなく幕府からの冷遇にも不満は言わなかったとされます。しかし後にこう言ったとされます。
「できることなら、五郎八と高田で静かに暮したかった。」
その才能や人望がゆえに不遇な人生を送った忠輝公ですが、高田を愛し、また高田のまちを築いた人物であることは間違いないのであり、高田藩お膝元である上越市民はもっと忠輝公の人物像を知り、愛し、郷土の英雄に加えるべきであると私たちは考えます。
*これらエピソードは、隆慶一郎著「捨て童子松平忠輝」の一説を取り上げており、 実際の史実とは異なる点、小説として物語を補っている点があります。